しばらくぶりですが 裁く者から祈る者、そして祝福する者へ① の続きになります。
誰もが人を裁いてしまう気持ちがあるが、御言葉によって乗り越えられるという内容でした。
しかし、現実はそう簡単にはいかなくて、特に理系的な性質を持つ私などはいつも戦いの連続なんです。
①の内容では「自分と直接関係ないことで裁いてる案件が意外と多いのです」と打ち明けてますが、自分に関することには意外と反応しない。
自分に向けられる、悪口、裏切り、しっと、ねたみ、誤解などに関しては、こちらにも非があるかも、そこから学ぶことがあるはず、神からの自分への忠告かも、などと自分の問題として考えるようにしてるのでそれほどつらくはないんですね。
もちろん最初のころは抵抗したと思いますよ。
でも、いくら裁いても結局は何にもならないことに気づいて、疲れるだけで時間の無駄、ということですね。
しかしその本人の問題や、別に対象者がいる案件に関しては「あなた、このままでいいわけないでしょ」「なんとかせねば」と反応してしまう。
牧師からの他には話せない祈りの課題はそんな話が多いです。
そうすると、私の力、知恵、経験で何とかしたくなる、いじりたくなる、介入したくなってくる。
詩編39-10わたしは黙し、口を開きません。 あなたが計らってくださるでしょう。
ダメダメ! 神の領域なのです。
前の教会では祈りの戦士が数人いたので霊的負担は分散されますが、今は牧師と二人だけでそれらの問題を背負って祈るのですね。
なので個人的感情など言ってられない、すぐにサタンに足元をすくわれてしまう、気持ちを切り替えて、ひたすら憐みと慈しみの心を神に求めながら執成すのです。
箴言 3:3 慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。 それらを首に結び 心の中の板に書き記すがよい。
ですから、前回も言った通り「祈り会は訓練の場であり信仰の成長につながる恵みなんですね」
でも、我慢する必要はないと思います。
ただし、話す相手は選ばなければなりません。
ですから、私の場合は牧師になりますが適切な相手に自分の気持ちを打ち明けて吐き出す、そしてもっと視野を広げてもらい、神の愛の基準で考える、発想の転換を示してもらう、ことは大事ではないでしょうか。
申命記 8:5あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
こうやって思い悩みながら訓練を通してイエスの証人として少しずつ成熟していくのではないでしょうか。
ですから、人のために祈るということは自分にとって非常に有益なことだと思います。
今日はここまでにします。
憐みと慈しみの神様
心の狭い私を憐れんでください
神の目で人を見ることが出来ますように
祈りの戦士としてイエスの証人として
用いられやすいものに変えられていきますように
感謝してイエスキリストの御名によってお祈りします アーメン