昨日は理系クリスチャンのユウウツで今までの自分の未熟さを赤裸々告白した次第ですが、訓練に次ぐ訓練によって少しずつだけどそこから変えられていくのですね。
しかし、果たして私だけなんでしょうか?
私が知ってるだけでもたくさん見てきました。
今思いだしてもやっぱり理系が多いような気がしますが・・・
ほとんどの人は自分に対しても厳しい秤をもって真面目に信仰を守ってるし、相手に対してもある程度の許容できる心は持ってる。
でも、ある一線を越えることは絶対に一ミリも許せない。
そのとたんに裁きの心がひょっこり顔を出す。
そのことを直接本人には言わないですよ。
牧師に言うわけですが、まぁまぁとなだめられる。
そこでいつも思い出すのがこの箇所です。
ヨハネによる福音書 21:21ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。 22イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
他の弟子と比較するなという場面なのでちょっと違うかもしれませんが、自分的には「あなたに何の関係があるか」が聞こえてきて振り上げたこぶしを下ろすわけですね。
そう、よく考えてみたらその相手が何をしようと自分が不利益になるわけではないのだからそこまでヒートアップする必要ないじゃん。
そうだった、じゃぁ気の毒だから祈っておこう、と落ち着くのです。
そうなんです、自分と直接関係ないことで裁いてる案件が意外と多いのです。
でも、ある程度真面目に信仰持ってやってるから、相手のそういう部分も見たくないのに見えてしまうのですね。
荒探ししてるつもりはなくて、良いところも見て認めたり喜んだり出来るのに、自分の基準からちょっとでもはみ出ると何とかしたくなる、一言でも言いたくなる、嫌な奴なんです。
マタイによる福音書 7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
それは困る。
良く考えたらつまらないことで腹を立てて、無駄な時間を過ごして、もったいないことをしたことに気づく。
たったこれだけの御言葉で普段の平常心の生活に戻れるのですね。
私だけなんでしょうか?
だったらもうこれで終わりにしますけど多いような気がします。
実際見てきたし・・・
前の教会では祈り会のレギュラーが10人くらいで、ある程度の情報を共有して祈ります。
みなそれぞれの引っ掛かる部分は違いますけど、ある人はお金、ある人は悪口、またある人は信仰態度とかに敏感で裁きたくなる戦いがあると思います。
それでも祈りの戦士として、それを背負って執り成していくのですね。
ですから祈り会は訓練の場であり信仰の成長につながる恵みなんですね。
その態度を見て別の機会にもう少し上のレベルの情報が共有され「これも祈ってください」と牧師からリクエストされる。
そのころにはもう以前に裁いていたような内容には反応しなくなってる、少しだけマシになった自分がいるのです。
もう長いのでここまでにします。
審判主として再び来られるイエス様
今は天の右の座について私達のために執り成して
くださってますからありがとうございます
どうか裁く心から自由にしてください
いつも心に平安がありますように
イエスの証人としてよい証し人となりますように
イエスの御名によって祈ります アーメン