という牧師がいます。
信徒の中にもその考え方の人が一定数いるようです。
聖書箇所を引っ張り出してきて、妙に力説するユーチューブな人もいますが・・・
マタイによる福音書 23:7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。 8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
前後の文脈、時代背景、誰に向かって語られてるか、よく考えて気を付けて読み解いていきたいと思います。
当時の指導者に向かって人々から先生、先生と持ち上げられることを好む態度は良くないですよ、とイエス様が指摘されてるのですよね。
ですから、当時の指導者のように高ぶらないために現在の教会でも牧師がそう考えてるところもあるようです。
なので、このような背景を理解したうえで、表面上の論争に巻き込まれない、影響を受けないようにするべきと考えます。
私的にはどっちでもいいと思っています。
ですから「どのようにお呼びすればよいですか?」と直接本人に聞くようにしています。
または、その教会で一番信頼できる人、礼拝態度の正しい人がどのように呼んでるかを見習うのもいいかなと思います。
ちなみに私の教会の牧師は韓国人ですが、二人きりの時はモクサニム、他に日本人がいるときは牧師先生とお呼びしています。
~ニムは上級敬語ですね。
そして呼び方以上に大切なのは、その牧師を心から尊敬し、その権威、威厳を認めているかではないでしょうか。
ローマの信徒への手紙 13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。
たとえ未熟な部分があったとしても、神が油注いだ方だと認めているか。
若い牧師に向かって「将来が楽しみですね」なんて言い方をしてる人がいましたけど、とんでもないことではないでしょうか?
サムエル記上 24:7 兵に言った。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」
秩序を守って従うべきは従い認めるべきは認める。
コリントの信徒への手紙一 14:33 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。 聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、
エフェソの信徒への手紙 4:11 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。
なので、個人的にはごく自然に「先生」と口から出てきます。
また、他の教会も多く見てきたなかで先生とお呼びしてるところが大多数でした。
使徒言行録 6:4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
そして牧師が本来の役目である祈りと御言葉に専念できるように何をするべきか?
それをいつも考えて行動する、環境造りをするのが自分の役目だと思っています。
全知全能の神の力とイエスキリストの知恵と
聖霊の助けが立てられた牧師に豊かに注がれますように
また私達が自分自身の思いや考えでなく
神の権威と秩序に従うものでありますように
牧師のよき理解者としてともに労苦するものでありますように
主イエスの御名によってお祈りします アーメン