調べてみると「文系人口と理系人口の割合はおよそ7対3くらい、理系のほうが圧倒的に少ないです」と書いてありましたが、
さらにクリスチャンとなるともっと比率差があるのではないでしょうか?
自分の教会を見ても文系ばかりで、思い当たる理系は一人いるけどその人も文系混じってるし・・・、純理系は私一人ですねぇ。
国語が得意で調べてみますと、物事を様々な角度から検証できる、他人の価値観・心情も理解できる、対人関係において「処理・操作する能力」としての「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」「抽象化能力が高い」とか出てきます。
社会は、さまざまな角度から社会を分析して社会の構造やしくみを理解し、人と人、人と社会の関係、社会が直面する問題を研究する。 個人と個人、集団と集団、あるいは個人と集団など、人間同士の関係のあり方や、社会のしくみそのものを探る、とか出てきました。
なんて羨ましいのでしょうか!!
だから文系な人の祈りは美しく表現豊かなんですねぇ。
理系な私にはまったく備わっていない機能が満載すぎて嘆いてしまいました。
人も物も時間もすべて数字化して損得計算する効率第一主義的なところがあります。
自分の物差しが正確すぎて、境界線がくっきりすぎて、でもクリスチャンとして「さばき」は罪なのでなるべく気を付けたいですが、実は自分の心の中では消化できてない苦しさと葛藤があります。
ひたすら霊の実を求めるしかありません。
ガラテヤの信徒への手紙 5:22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 23柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 24キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 25わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
たとえば、忠告される場合にどんな言い方だろうとまったく気にならない。
その内容が正しければ、つまり自分に非があればあっさりと素直に受け入れます。
むしろやんわりとか遠回しとか返ってまどろっこしくてさっさと要件だけ話してほしい。
ところが文系な人はそうはいかないらしい。
内容よりもニュアンスとかタイミングとか、自尊心を傷付けないように、とか?
理系な立場からすると、それって高ぶり?
難しいなぁ
しかし・・・
フィリピの信徒への手紙 2:1-4 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
そう言われてしまうとアーメンするしかない。
ヤコブの手紙 2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。
主がそう言われるならそうするしかありません。
そう、理系には御言葉にすべてアーメンできる特技があるのです。
まったく疑わない、躊躇しない、悩まない、切り替えが早い、理解が追い付かなくてもそのまま従う、実行力があるのです。
マタイによる福音書25章40節『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
マタイによる福音書25章45節『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
刺さりますね。
ですから、未熟な私にどうかイエスの豊かな愛と慈しみと忍耐が私の内にありますように、と毎朝毎晩祈るわけですね。
いつまでも変わらない神様
あなたこそわが友
あなただけが安息です
人の心は移りやすくたった一言で
変わってしまうことがあります
ですから人に配慮できるように
自分のためにも
まことのイエスの証人として立つために
御霊の実が豊かに注がれますように
感謝してイエスキリストの御名によってお祈りします アーメン