うちの教会は、牧師が女性、韓国人、教会が小さく、立派な教会堂もない、病気や障碍者がいる、人数が少ない、お金がない、働き人がいない。
それらが理由で何人も来なくなったらしいです。
以前の教会でも、牧師が若い、周囲の環境が悪い、嫌いな人がいるから行かない、賛美の曲が、自分のやりたい奉仕でない、一緒に通ってた人が辞めた、とか色々ありました。
教会を選ぶ基準は人それぞれだと思いますが、これらの何が問題なんでしょうか?
信仰と関係があるのでしょうか?
私の基準は、
・その教会の教えが聖書に忠実。
・指導者が御言葉と祈りに熱心。
・主日礼拝以外にも定期的な集会が盛んに開かれている。
・通いやすい立地。
ですから、最初に挙げた理由は何一つも当てはまらない。
もちろん不足なところはあるし、不満がないわけではないです。
でも、それこそそこが自分の働く場所、または自分の課題であり必要な訓練だと考えます。
不便なことはありますよ。
教会PCのキーボードがハングルなのでちょっと困る。
賛美の選曲をするのに前の教会では下書き原稿を見せてもらったりしましたが、ここではやっぱり韓国語なので無理なんですね。
なので原稿に頼らず聖書から自力でキーワードを読み取る力が付いてきたので返って良かったです。
説教内容とドンピシャの時はなんだかうれしくなります。
あとは聖書訳や讃美歌も慣れ親しんだものとは違うけど、特に問題ないですね。
宗派も異なるので若干解釈のニュアンスの違いはありますが、「へぇ、そうなんだ」と柔軟に受け入れるようにしています。
以上、「小さな問題」です。
エフェソの信徒への手紙 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
当然ですが、その教会に所属している以上はその教会に従うこと。
違いはあっても自分の考えを押し通すことはしないし、聞かれたら教会の教え通りに伝える。
コリントの信徒への手紙一 14:33 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。 聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、
それと、教会を探す場合には「私の基準」を満たしてるかを調べるわけですが、それだけでなくせっかく行くのだからそこの信徒や奉仕者の動きにも注目します。
ここでは詳しく挙げませんが、残念な教会や信徒が目につきました。
どんな信者、奉仕者だろうとも、人間なんてそんなものですから、何より私自身も人のことを言えるようなものではありません。
ですから、私にとっては「小さな問題」にすぎませんが、
しかし、初めて来た人とか、きっと不安の中で勇気を出してやっと教会に足を運んだような人にとっては、また行ってみたいと思えない、もう二度と行きたくない、という印象を受けるかもしれない。
これは非常に「大きな問題」ではないでしょうか。
決して見過ごすことはできない、とても考えさせられた時間でした。
ルカによる福音書 10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
心から歓迎する、主の愛と心を身に着けていきたいと思います。
ルカによる福音書 10:2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
教会の頭であるイエス様
働き手が足りません
愛のある指導者が足りません
疲れた者、重荷を負う者が心から休める
教会が足りません
日本にはこんなに収穫があるのに・・・
イエスの愛によってのみ、
地域教会が立て上げられていきますように
感謝してイエスキリストの御名によってお祈りします アーメン