制限のない人

12/04/2024

まことの礼拝者

たとえば、剥げてる人の前で髪の毛の話をしないとか、子供を若くして亡くした経験のある人の前では子供の話をしないとか、一定の配慮はありますよね。

教会でもその時のメンツによってこの話はNGがあるんですね。

特に説教の時に誰かを攻めるようなつもりではないのに、なんだか自分に向かって語られてるように受け取ってしまう人がいる。

でも牧師は御言葉を加工せずまっすぐ伝えなさい、勇気を出して時には大胆に語りなさいと命じられている。

決して牧師が狙ったわけではないのにその結果で実際につまずく人がいるので困ってしまう。

ですから、自分が刺されたと感じたのならそれは神が語ってるのだということですから素直に受け取ってほしいですね。

私もいっぱいありますけどホントにつらいとき、耳が痛いときもあるでしょう。

でもそれを乗り越えてこそ、まことの礼拝者ですから、従順してアーメンしないと。


祈り会もそう。

この人がいると話せない内容がある、祈ってほしいがこの人には知られたくない、とか。

祈りの担当でも時には色々配慮しながら祈るときもある。

ホントにデリケートな事情なら分からなくもないが「えっ!?こんなことでつまずくの?」ってことで、いわゆる「お話の出来ない人」が多くて困ってしまいます。

その結果、説教内容が狭くなる、祈りが小さくなる。

教会全体としてどんどん制限されてしまうということですね。

逆に剥げていても笑って剥げの話が出来るとか、つらい過去があっても同じ内容でも遠慮せず話が続けられる。

そういう人もいますね。

くしゃみを1回したら、もう祈れなくなったと言われたこともあります。

それは申し訳ないことをしたとそれ以来くしゃみが出そうになると思いっ切り両手で強く抑えながらするようになりました。

あなたのNGはいくつありますか?

人には話せない問題を抱えてる人もいるでしょう。

そんな簡単にはいかないのかもしれませんが、私は牧師に失敗や恥ずかしい経験やらすべて話してます。

他の人の益になるなら話してくれて結構、どんな形でも役に立てるならどんどん使ってください、名前を出して構いませんとお願いしてあります。

ですから、自分の問題はそれはそれとして向き合いながらも、決して縛られない自由な考えで教会全体として抱えてる問題と重なるときも耐えられるように制限のない人になってほしいと願います。


教会のかしらであるイエス様
私達がなんの制限のない、まったき自由な信仰者でありますように
一人一人が自立したまことの礼拝者に成長していきますように
感謝してイエスキリストの御名によってお祈りします アーメン